桜でんぶとお弁当
先日、とあるデパートの地下食料品売り場で「そぼろご飯のお弁当」を見かけた。久しぶりに目にしたそぼろ。その瞬間、母がお弁当に作ってくれたそぼろの味を、私は思い出していた。
甘く煮付けたそぼろと炒り卵が、ご飯の上に半々に敷き詰められていたお弁当。私はこのメニューがむしょうに好きで、よくおねだりしたものだった。
「緑のはいらないからね!」
茶色と黄色、二色だけのお弁当があまりにも彩りに欠けると思ったのか、ある日母はさやえんどうの刻んだのをそぼろご飯の脇に飾った。当時緑黄色野菜が大嫌いだった私は、ふたを開けて大変なショックを受けた。
「これを食べねばそぼろへは進ませぬぞ」
と門番のように立ちはだかるさやえんどう。あんなに大好きだったそぼろご飯が、その日だけはどうにもやるせなく、憎たらしいものに見えた。以来、そぼろご飯をねだるときは先の念押しを、朝台所に立つ母に何度も繰り返すようになった。
小さいお弁当箱にそぼろご飯を敷き詰めると、やはり残りのスペースにはいいところ魚の切り身か、デザートとしてみかんの切ったのぐらいしか入らない。そんな彩りのないお弁当が、母はいたく不満だったのだろう。
その後もなんとかアクセントをつけようとして様々なものを「混入」させてきた。まだプチトマトやしゃれた冷凍食品もない当時、数々の試行錯誤を経て、私の心にヒットしたのは「桜でんぶ」であった。
衝撃的なピンク色、見たところまったく原材料の読めないそれは、ただ甘く感じられ、独特の食感が面白くて、ウケた。あれ美味しかったね、少しじゃなくもっと入れてね、そう告げたとき母は珍しく笑っていたように思う(あまり笑わない人だった)。
「そぼろぐらいイッパイ入れてね!」
今思えば、無茶な注文だった。ある日そぼろ弁当をねだった私は、あの甘い不思議なおかずをもっと食べたくて仕方なく、母にそんな要求をしたのだ。わがままな私は、それこそ懇願、いや朝の忙しい時間から母に駄々をこねにこねまくったのだと思う。
そぼろぐらいの分量で桜でんぶが敷き詰められた、シュールでポップなお弁当の表層を、私は今も忘れない。
ブラウンとピンクのツートン。今なら「これってどうよ」と間違いなく思うであろうその衝撃的な色彩も、子供の私には夢のようなご馳走に思えた。
「いただきまーす!」
意気揚揚と食べだした私は、次第にその濃厚な甘さに辟易していった。しかしながらつい先程、うっすら涙さえ浮かべ母にあれほどお願いした手前、ここで残すのはあまりにもシャクというもの。親たちの「それ見たことか」とせせら笑う姿が見て取れるようではないか。少しずつ頑張って口に運ぶが、ただでさえそぼろ自体も甘く、どんどん口の中が糖分で過飽和状態になってゆくのがわかる。
私はその日、生まれて初めてそぼろ弁当を残した。
家に帰ってソッとお弁当箱を母に渡してそしらぬ顔をしていたが、結局は母は何も言わなかった。
その日からしばらく私は、お弁当に文句などつけられるはずもなく、黙って押し頂く日々が続いたのであった。
「過ぎたるは及ばざるが如し」
この諺の意味を何度も身をもって知っておきながら、いまだに私は過ぎたる酒、過ぎたる食を繰り返してしまっている。
せっかく母に、教えてもらったというのに。
今ではまったく食べなくなった「桜でんぶ」でも買って帰って、自戒のために食卓に飾ろうかとフト、デパートの帰りに思った。