神楽坂『和可菜』

 黒川鍾信さんの書かれた『神楽坂ホン書き旅館』(新潮文庫)を先日読んで、読み終えた瞬間にもう旅館に電話していた。
「七日に一泊、ひとりでお願いします」
 ホンとは脚本のことで、芸界ではそう呼ばれている。


 この旅館が神楽坂にできたのは、昭和29年というから実に57年前だ。
 女将が女優・木暮実千代実妹であったことから、映画人が次第に利用するようになっていく。脚本作成のために、いわゆる「カンヅメ」で脚本家が泊まるのだった。映画会社が彼らに長逗留を許せた、良き時代。ここをすっかり気に入って、ホン書きをするときは自らの財布でここを利用する映画人も増えていった。今でいうと、山田洋次監督がその筆頭。
 最近の映画人もここを利用している。妻夫木聡主演の『悪人』、あの監督の李相日と原作者で脚本の吉田修一の両氏もここでホンを書き上げたという。


 なにしろ女将もご高齢、なんとかその「空気」を知っておきたい。先の『神楽坂ホン書き旅館』を読んだらもう我慢できず。今井正内田吐夢深作欣二浦山桐郎早坂暁市川森一がこもった宿。久々に「思い立ったが吉日」という気持ちになった。

 泊まった詳細を書いていったらきりがない。まず「桐の間」に通されて、ずっと書こうと思っていた手紙をひとつ書き、これもほったらかしにしてた勉強テーマに向かい、本を2冊読んだ。

 静かで、静かで。ときおり、近所の猫がケンカする。それも猛烈に。ここで飼われている猫がずいぶん強いそうだ。女将さんとも、お話しできた。


 翌朝の朝ごはんが、うまかった。その味に対して言葉は飾りたくない。そういう味だった。
 鰆の焼いたの、こんにゃくとゲソの煮物、ホウレンソウのおひたし、ごはん、ネギとわかめの味噌汁。そしてきゅうりの糠漬けと千枚漬け。このぬかの漬け具合が、すばらしかった。あんなすがすがしい糠漬けは経験したことがない。


 わざとではないのだけれど、時計を忘れてしまった。また取りにゆこう。