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取材で、板場に入れてもらうことがある。
板前さんが無駄のない動きを拝見できる。ありがたいことだ。
盛り付けられる前の素材や、仕込み中の野菜や魚が並んでいる。ああ、こういう風に盛り付けられて出来上がるのか。「あしらい」ってこんな風に作られるのか……いつも、たくさん、発見がある。滅多に見れない「裏」の世界は、いつお邪魔してもワクワクする。
とある厨房を取材したときのこと。
ふしぎと、流しの下に目がひかれた。小さい子供なら入れそうな大きさの酒樽があった。苔むしたような風情、といえば言い過ぎだが、随分と年季もの。
思わず問えば、女将さんが「これを入れるのよ」とニッコリと示してくれたのは、きれいに剥かれた蕪。ざるに大きな白い蕪がゴロゴロと六、七個分はあった。
ふたを開けて放り込み、手際よくかき混ぜる。なるほど、それは立派な糠床だった。
このお店があるのは、日本橋の某所。あたりはすっかりビル街ながら、一軒だけ昔の風情を守り抜く鰻屋さんだ。
取材中にすっかり蕪は糠に埋まり、表面には、女将さんの指すじが幾重にもついていた。
あんな大きな蕪、どのくらいで漬かるものだろう。思わず問えば、「あらやだ」と笑い、一晩もすれば漬かりますよ、との答えが。
下町の、それも日本橋の女のひと独得の早口な喋り方。料理上手が玉葱に包丁を入れるようなリズムで、すぐさまトットと話される――こういうのも、料理屋の「味」だなあ、と思う。
こちらは明治から続くお店。まさか糠床も、と思ったが、
「それは分かりませんけれど、先(せん)の女将さんからのもんですよ」
じゃあ女将さんが、この糠床を守って何年なのですか。そう訊きたいところを、グッとこらえた。女優さんと一緒で、女将さんにも歳はないもの。ただ目見当では、40年ちょっとは経つだろう。
当たり前のことを、たずねたくなった。やっぱり、毎日かき混ぜるものですか。
「そりゃそうですよ。毎日ね。うん、毎日」
最後の、「毎日」を言い終えて、一瞬切ないような、愛おしいような、微妙な表情をされたように思えた。
若女将時代から、どんな思いで毎日糠床をかき回してきたのか。料理は他にいっさい女将はなさらない。ここの壺のあるところだけが、彼女だけの場所だった時代もあったろう。
半日で漬かる野菜が、40年以上は出来てから経っている糠床に入っている。先代の女将も、毎日かき混ぜただろう糠床。
このなかに、どれほどの女のおもいが詰まっているのだろう。
「せっかくだもの、どうぞ。召し上がってよ」
暖かい寝床から起こされた野菜が、冷水でサッと洗われ、盛り付けられる。どれも野菜の甘みが膨らんだ、あっさりとしたぬか漬けだった。
どこの料理屋でもそうだが、上等なものは、修行の苦い味が滲まない。すっきりとした香りの蕪の糠漬けは、白無垢のようにきれいだった。
隣では、息子さんという若旦那が仕込みをされている。この人は多分物心つく前から、この糠漬けを食べてきたのだろうな。