ヴィシソワーズの思い出
昔、うちに10冊セットの料理百科事典があった。
本棚の真ん中に普通の百科事典、庭いじりが好きだった父用の園芸事典など共に、本棚の真ん中に鎮座ましましていた。母が嫁入りに持ってきたものだという。
和食、洋食、フランス料理、中華、お菓子……各巻とも、それぞれの料理の写真がフルカラーで載っている。それを、子供の頃ながめるのが好きだった。オレンジ色の装丁で、ひらかずとも食欲をそそった。いまだに、オレンジ色を見るとなんとなく腹が減るような気がする。
長じて料理百科事典のことなど、いつしか忘れた。
高校生になったころ、探し物をしていて百科事典があるのを見つけた。本棚から戸棚の奥に料理百科事典は「おうつり」になっていた。オレンジ色はキモノでいえば柿渋のような色合いになっていた。
面白いもので、この背表紙を見ただけで小さい頃に心ときめかせたワードがパーッと出てくる。ババロア、ムニエル、シャリアピン。よだれが出て本を開いた。
「冷たいジャガイモのスープ ヴィシソワーズ」
パッとひらいて出会ったのがこのタイトル。
スープに冷たいものがあるなどとは前代未聞。いったいどういう味なのか、知りたくてたまらない。食べてみたい。母に早速相談した。
「いやよ面倒くさい。すごく手間かかるんだものあれ」
にべもない。この人はいったん「イヤ」といったら簡単につむじを直す人ではない。諦めた。
「自分で作ればいいじゃないの。力もいるから男向きの料理よ。お母さんも食べたいから、作って」
面倒くささに興味が買った。
今でもうすらボンヤリ覚えている。
たくさんジャガイモを買って茹でて皮をむいて、ザクッと切って。玉ねぎとバターでタップリ炒めて、ジャガイモをあわせて、多分コンソメで煮た。コトコト煮て、大量のこふき芋みたいになったら、ひたすら裏ごしする。ここで汗が出る。時おりしも夏であった。母は本当に手伝わなかった。どの工程だったか忘れたけれど、「ここでホントはミキサー使うのよ」といった。うちにはなかった。
それをさらにコンソメとクリームで煮るんだったかな……あやふやだ。しかしともかくも出来た。冷まして飲んだら、嘘みたいにおいしかった。私が何かレシピをみて作ったはじめての料理だ。
そのころ僕は鉄板焼のお店でアルバイトをしていた。
けっこう本格的な店だった。そこのシェフに恥ずかしげもなく、昨日これこれを作ったんですといった。「まだあれば持ってきなさい、味を見てあげる」という。さらに恥ずかしげもなく持っていった。
「塩気が足りない。それとこれ、ポロネギがあるとさらに甘みが増すよ」
ポロネギ……私はこの味でも充分うまいと思っているのに、さらにおいしくなるなんて、それはいったいどういうネギなのか。知りたい、食べてみたい……。
思えばこのへんから、食に対する興味がスタートしたような気がする。ポロネギから続く連続好奇心が、食の仕事をさせてもらってるベースにあるようだ。
(これは玉ねぎの冷たいスープ。恵比寿の「ル・ビストロ」にて)