スパゲッティ・アルデンテと芸界の長老


 「噛めやしないよ! 茹で方が下手なんだ、味が落ちたよこのホテルは!」
 振り向くと、身なりのよいご老人が青筋を立てて怒っていた。まわりには着物姿の女の人に囲まれている。何年か前、今はなき歌舞伎座近くのホテルのレストランでのことだ。
 よくみれば、古典芸能の世界では名を知らぬものはいない、さる長老だった。着物の女の人はお弟子さんや、家元夫人といった面々。
「ごめんなさいね、取り替えてくださいますか」
 慌てて近寄ってきたウェイターに夫人が頼む。さる方は吐き捨てるように、いった。
「昔はもっとちゃんとしたスパゲッティを出していたんだ。腕が落ちた、落ちてしまった」
 ウェイターは悠然としたものでニッコリとしつつ、すぐに作り直してまいります、申し訳ありませんでしたといって去っていった。慣れている風情だった。


 私は心の中で、
「おじいちゃん……何年来てないか分からないけど、世の中のスパゲッティは『アルデンテ』っちゅう茹で方になっちゃったのよ。そうじゃないと逆に、コックさんバカにされちゃうのよ。ああ、無常なり……」
 そう呟いていた。私はこれから、長老連と同年代の方と食事を共にするとき、もしスパゲッティを頼まれることがあったら、ソッと茹で具合に気を配らなくてはな、とも思った。
 伊丹十三の『女たちよ!』を読み返していたら、「スパゲッティのおいしい召し上がり方」なる一節があった。昭和43年に発行されたこの本で、伊丹さんは日本のスパゲッティの茹ですぎを嘆いておられる。
 それを読んでいて、こんな思い出がフッとよみがえってきた。
 その長老も、もう亡くなられて久しい。今日もナスのスパゲッティを作って食べた。