蟹の爪

中国の国旗

 

 蟹の爪。これを高校受験の前の夜に食べた。


 「何があるか分からないんだ。前の日から、近くに泊まりなさい」


 中学校の頃、私は埼玉県の川越市に住んでいた。
 塾ブーム、というのか、今よりももっと子供も多かった時代の話。受験産業も隆盛を極めていた。埼玉の子供がよく通っていた塾で、山田義塾というのがあった。埼玉ではどこにでもあったと思う。ちなみに今はもうない。
 この塾の全部の生徒が、長野の高原のホテルを何個も貸し切って、「受験合宿」なんてのをやっていた時代だ。


 私もその例に漏れず、塾に週4で通っていた。高校は中央線の武蔵関にあるICUの付属を目指していた。英語に興味があって、交換留学枠がたくさんある学校に行きたかった。
 ここの入試問題はとても変わっているというか、独得の出題方式で他と随分毛色の違う問題を出してくる。私は、長いこと専門の対策勉強をしていた。


 川越と武蔵関、さほど遠いわけでもないのだが、父が受験前日、ほど近い吉祥寺にホテルを取ってくれた。悪天候で電車が止まったりとか、予期せぬアクシデントを心配してのことだったらしい。
 今思うと、随分手厚く育てて頂いた。


 その夜に父と母と三人で、ホテルに入っていた中華でご飯を食べた。
 中華店の主人は入試前と察したのだろう。
「蟹は縁起がいい、これおすすめね」
 そういうや、もらおう、と父が注文した。


 鰯の頭じゃないけれど、蟹の爪に信心したのは初めてだった。
 その夜は私が受験するというのに、父と母のほうがどうかしてしまったのかというぐらい押し黙っていた。私も何もいうこともなく、黙って玉子スープだのを飲んでいた。コーンが浮いていた。
 灰皿に父のラークの吸殻が増えていく。父が「ビールもう一本」というと、母が「もうやめなさいよ」といった。  親子三人が、蟹の爪をただジッとしゃぶっていた。猫の手でも蟹の爪でも、借りたかった。



 結局、私は落ちた。





(新宿・隋園別館の蟹の爪)