ブドウ連想


 ブドウ、それも巨峰を見ると思い出される1シーンがある。
昔のドラマで、平岩弓枝ドラマシリーズというのがあった。
平幹二朗(私は、「面妖」「魁夷」という文字を見ると、このひとを思い出してしまう)が
愛人の女に、ネチネチとした「よしなしごと」を、軽く嫌味を込めて語りかけるシーンがあった。
確か……相手役は十朱幸代か、多岐川裕美だったと思う。
そのとき、幹二朗は当時はまだ珍しかったバスローブ姿(それも白)をまとっていた。
そして片手には、巨峰がひと房。それを手から下げては、一粒、一粒、口に入れる。
「お前も大した女だな」
などと囁いては、口からブドウの皮を「ペッ」と吐き出す幹二朗。
「女手ひとつで、まさかここまでのし上るとはなッ」
そんなことをほざいては、また皮を吐き捨てる幹二朗。
言いつのるうち、どんどん吐き捨て方も激しく眼光鋭くなっていく幹二朗。
しまいには後ろから女に抱きつき、目をむいて恫喝するような芝居をしていた幹二朗。


 (参考資料:平幹二朗さん)

 この世のものとは思えなかった。
小学生も低学年だった私は、見てはいけないものを見たような気がした。
不敬なことだろうが、キリスト教では葡萄酒が血に例えられることを聞いたとき
「さもありなん」と、変に納得してしまった。
ブドウの汁を口の周りにたたえた幹二朗は、どうにも人を喰ったようであったから。



「ヨウシュヤマブドウ」が、
「あ、洋種山ブドウなのか」と分かった日はいつだったろう。
同世代なら分かると思うが、この品種はなぜか必ず理科の時間に習ったと思う。
いままでカタカナでインプットされていたものが、
語義的な意味がフッと分かったときは、不思議な感触を心に感じる。
洋種・山・ブドウ。ついさっきまでは、ヨウシュヤマブドウと一語だったのに。


写真は、世田谷は用賀倶楽部の前でたわわになっていたもの。
このブドウを見かけるといつも、理科の先生が
「これは食べられないのよ」と説明されて、ガッカリしたときの気持ちを思い出す。


 トップの写真は近くのスーパーで、「298円」だったピオーネ。
この頃、グーンと安くなった。ようやく貧窮ライターでも手が出せる値段になった。
一粒口にほおるたび、走りの高いブドウを毎年食べさせてくれた父と母は偉大だったと、
感謝とわが情けなさが口に広がる三十路のブドウであった。


○追記
先週休んでスイマセン。どうにもショックなことがあって、何も書けなくなっていました。


(文=白央篤司)