梨とリンゴと、デボラ・カー

 梨をむく。
 皮に包丁を入れると、うっすら汁気が滲んでくる。梨のみずみずしさは、格別だ。すごいのは、むくうちに滴が垂れるものすらある。歯触りも香りも、梨でなくては味わえない独得のものだ。その味恋しさに、手間はかかれど梨をむく。果汁でぬれぬれになった手を洗い、さあひとかじり。


 梨の香りは、おもしろい。典雅で、ひめやかだ。押しは強くないが、忘れ難い。華はないが、名花である。ものすごく勝手な妄想だけれど、私は源氏物語に出てくる明石の方を思うと、なんとなく梨を思う。あとこれもイメージだけれど、デボラ・カーという女優さんは、梨のような香りがしたんではないか。


 「手」によって、味が変わるたべものがある。よく、おむすびや漬物にいわれることだ。なんだか科学的に証明もされているようだけれど、確かに握る人、糠どこをかき回す人の手によって、味は変わる。お寿司もそうだ。同じネタを使っても、職人が違うと味は絶対に変わる。それは技術というより、「手」ではないかと思う。
 梨をむいていて、そんなことを考えた。確かに美味しいのだけれど、何かが違う。自分でむくのと、人がむいてくれるのでは、味が確かに違う。そして、むくひとによっても、味は変わる。
  
 小津安二郎の映画『秋日和』で、こんなシーンがあった。佐分利信中村伸郎といった中年男が、かつての友人の周忌で集まる。その未亡人は彼らの若き日のマドンナであった。演じるのは、原節子。何かの用事で原に会った中村が語る。
「けどやっぱり、平山にはもったいないよ。綺麗だぜ、相変わらず。それでね、俺にリンゴむいたりしてくれてね。あの白い手で……」
「で、お前食ったのか」
「ああ、食った。うまかったよ」
 原節子のむくリンゴは、どんな味がしたのだろう。


 母のむくリンゴと、父のむくリンゴは味が違った。母は割りにぞんざいなところがあり、なんというのだろう、ダイナミックにむきものをする人だった。
「ママのは、リンゴが六角形だな」
 そういって父はよく笑っていた。確かにいわれてみれば、リンゴが角ばっている。名産地・青森育ちだからか知らないが、父のむくリンゴは綺麗だった。むかれた皮に最小限の身しかついていない。皮幅も、母のより小さく、細かった。
「売りものじゃあるまいし。文句言うなら食べるな」
 母はつむじを曲げて、うまれの新潟弁になってむくれたが、父のリンゴは食べていた。
 とはいえ、今思えば父のリンゴはすこし固かったように思える。母のリンゴはなぜか柔らかかった。母のむくリンゴは、角はあったが、味はまるかった。水仕事を毎日している手は、たべものに柔らかみを与えるのではないだろうか。今、父と母と私が一緒に食卓にいた、あのときを思い出しつつ、この文章を書いている。それは、何年前のことだったか。少なくとも、15年以上前のことだ。父のリンゴは、今どんな味がするだろう。

 
 自分でむいた梨をかじる。デボラ・カーの香りはうつくしい。けれど、何かが物足りない。果実をむいてくれる手というのは、ひとつのうつくしいスパイスなのかもしれない。自分でむいた梨に思いがけず人恋しさを感じて驚く。どこかにぞあるかたわれを思うならば蛤で潮汁でも作るか。などと思いつつ季違いの貝。秋はきぬ。